窮屈ではないものに

感情や気分をそのまま受け止めるような建築を考えようとしている。やはり、建築は人を包み込むようにできているもので、もしそうでなければ、工作物、土木構築物だから、それでは建築ではないから、ならば、人と建築の関わりの中で考えると、主体は人になり、それに合わせて建築が変化する方が自然のような気がする。

そうすると、人は日々の生活の中で何に一番左右されるのか、良くも悪くも感情や気分だと思う。少なくとも、感情や気分の変化無しに1日を過ごすことはないだろう。

だから、建築を計画する上で、人の感情や気分を扱うことには妥当性がある。程度の差こそあれ、感情や気分に左右される人を包み込む建築はどうあるべきかは重要な問いだと思う。

93DAB5A4-3F24-4A89-9E36-668F2855D41E.jpeg

一方で、そのような言葉による問いから導き出された建築は本当に妥当性があるのだろうかとも考えてしまう。ちょっと窮屈な思いもある。

何もしなくても湧き上がってくる感情や気分があり、それが意図せずとも見方に影響を与え、その影響が何も介することなしに建築化されたようなものにしたく、それは何か固定化されたイメージの建築ではないことだけは確かなので、つくりながら、後追いでできあがったものに言葉をつけてみようと思う。それが例え的外れだとしても、できあがったものにはその時の感情や気分がダイレクトに反映されるだろうし、少なくとも窮屈な思いはない。

リンク

PageTop