1本の木が森になるか

森の中で暮らすにはどうするかと考えながら設計をしているのだが、敷地が東京の区部でそれを実現するには広大な土地が必要になり無理だな、とぼんやり赤坂の迎賓館あたりを見下ろしながら考えていた。

森の中にいる感じを木の量で実現しようとすれば広大な土地が必要になる、当たり前である。では量でしか森を感じることはできないのか、探究のはじまりである。

1本の木で森を感じることはできないか。

普通に考えたら、というかそもそもおかしな問いの立て方である。1本の木が森になる、小学生の時に習ったはずである国語の時間に、木が2つあって「林」、木がたくさんあって「森」という漢字になると。まともな捉え方では解決しない。

ちょっと別視点から、その木は誰ものか。

自宅の玄関脇に1本のオリーブの木がある。最初は親指ほどの幹が今では私の太腿より大きい。毎年実をつけ、どんどん成長していくので自分で手入れをしている。また、2階のキッチンの窓からはお隣の木を見下ろすことができる。こちらは何の木だかはわからないが常緑で小鳥もよくやってきて鳴いているので、毎朝窓を開けてコーヒーを飲みながら眺めている。

どちらがより森にいる感じに近いか。

どちらも森にいる感じではないと言われればそうだが、強いて言えば、お隣の木を眺める方ではないかと思った。

そこで所有が鍵にならないかと考えた。

森を感じる時に自分のものであるかどうかは最初から頭にない。当たり前である、森の木と自分との間には何も関係性が無いから。関係性が無いから自分勝手に想いを抱き、そこに癒しを求めることができる。

長屋計画である。各長屋の中庭に1本の木を植える。ただし、その中庭は外部からアクセス可能であり木も共有である。長屋の数だけ木がある。10戸近く長屋があれば木もそれなりに目立つ、ただし、自分の木ではない。この感じは森に近いのではないか、そして、各長屋では木に接近した暮らしが実現できる。

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