ものには何らかの意味が付着している。これが元々どうであったか。モダニズムでは、ものが持っていた意味を否定するところからはじまった。ポストモダニズムでは、その否定した意味に焦点をあて、意味を復活させようとした。ところが、復活したかにみえた意味は、また不要なものとして、より巧妙にものの奥深くにかくしてしまった。
ものに何かしらの意味を持たせたい、という感情は常に存在している、とおもう。だから、定期的に、形を変えて、ものの意味が問われる。いっそ、素直に、感情を認めて、意味自体をあつかえばいいのに、理性がそれを許さないのだろう。なぜか理性がまさる。